痛みや苦しみを礼賛する人達

痛みや苦しみを礼賛する人達#interest_aeおがた (@xtetsuji) です。

先日書いた母の日関連のブログ記事、近しい人達で好評だったのが結構驚きました。伝え方が難しい内容でしたが、ひとまず安心。

上記ブログ記事ではあまり触れなかったのですが、主に女性を取り巻く痛みや苦しみについて、追加で書いてみます。

女性の痛みや苦しみを取り除く施策へ反対する人達は…

前述のブログ記事でも無痛分娩について触れましたが、女性の痛みや苦しみを取り除こうという試みはいくつもあります。

  • 無痛分娩
  • 月経前症候群(PMS)の治療や対症療法など
  • ベビーカーにやさしい生活基盤
  • 夫婦共働きなのに保育園に子供を預けられず女性の負担が大きくなる問題

などなど。今まであたりまえのことだとされて表立って取り扱われなかったことが取り扱われるようになったことは、とても良いことですね。

とはいえ、短期間で社会が劇的に変わっていくわけで、当然軋轢も生まれます。昨今話題の、混雑した公共交通機関でのベビーカーの扱いなどは最たるものでしょう。

では誰が反対しているのでしょうか。

色々な調査があるので一概には言えませんが、満員電車に乗ることの多い20代から50代の男性が反対しているのは想像に難くありません。「頭の堅いオッサン、早く淘汰されないかな」と一蹴してしまえばいいやと思ったのですが、意外なことに中高年の女性の反対が多いといいます。むしろ中高年の女性の反対のほうが多数だったりすることもあるようです。

結論を先に書いてしまうと、「私達はそんなものがない時代に頑張って子育てしたのに、今の若者は甘やかされているけしからん」という、これまた不幸の連鎖っぽい主張のようです。

意外…とは思ったものの、女の敵は女ってよく言ったものだなぁと、妙に納得もしてしまうのです。

当然ながら、中高年の女性でも理解のある人はいます。私の母も若年世代への関心が高いですし、私の周囲の中高年の女性も問題意識を持った方ばかりで、話していて勉強させられることが多いです。

子育てに理解の無い前時代的な夫とともに過ごした女性の一部には、現代の子育てに理解のある夫を持つ妻の行動に癇癪を持つこともあるようです。「夫や親に子供を任せて自分は遊び歩くなんてとんでもない」と。とはいえ、家制度による裏付けがあった近代までの時代、地域コミュニティが揃って子育てをしようとしていた時代、そして夫婦共働きをせずとも潤沢なカネがジャブジャブ手に入った高度経済成長期…、それとはまた別の苦しみを現代の女性は持っているのだと思います。そういう社会のひずみを何とかすべく男性側の育児参加も声高に求められるようになったというのが現代社会であって、それをやっかみ間接的に批判する一部の中高年の女性には「親は選べないけれど、結婚する男は間違えたんじゃない?」としか言いようがありません。同情はしますが、見る目がないことに対する自身への反省が全くないし、反省がなければいつまでも同じ失敗を繰り返すことでしょう。そんな中高年の女性達も高度経済成長期でオイシイ思いをした人も数多くいるわけで、現代の経済的な不安を常時抱えた若年女性から見たら贅沢であるとすら思えます。

ここでは配偶者の選択に間違ったといった根本的な問題は考察しません。それは恋愛過程といった一歩前の考察が必要でしょう。それについては機会があれば別記事で書くことにします。

ともかく、年金制度も実質的に崩壊していて、今後の経済もどうなるか分からない世代に対して、家族のために自分が犠牲になれという価値観は既に遠い昔のものです。社会では終身雇用制が瓦解したのと同様に、家庭も永遠のものではなくなりました(誰もが熟年離婚するというだけでなく、家庭だけ・仕事だけという偏った人間が老年世代になって行き詰まるという一般的な問題です)。また人口減少時代に向けて優秀な女性の力はどんどん社会に取り入れていかないと立ち行かなくなりつつあります。既に数十年前とは価値観がまるで違うのです。そのために出産した女性の社会への再進出を真剣に議論すべき時ですし、そのためには「女性の男性化」でしかない上っ面の男女平等をひっくり返して、女性の痛みや苦しみを取り除いた上での本質的な議論をしていく必要があるのです。

もちろん、世代間闘争を煽る典型的な中高年女性だけでなく、周りのことを考えず超満員電車にベビーカーを突っ込んで騒ぎまくる若年女性がいることも事実です。通勤ラッシュの首都圏の電車とか、ベビーカーが粉砕されて生命の危機すらありますよとか思ってしまいます。結局は、良い人間は良い、悪い人間は悪い、という性別関係無い結論に落ち着いてしまうことが最近の私には多かったりします。

最近読んだ記事で共感したのはこの記事でした。色々考えさせられます。

痛みが愛情を増すという危険思想

前述のブログ記事にも書きましたが、無痛分娩についてのアンケート記事を読んでいると必ず出てくるのは「痛みが子供への愛情を増す」という意見。こんなこと言うなんて本当、男親に失礼でしょう…。だから日本で養子縁組制度が進まないし、それが遠因で妊娠中絶が減らないんだなと呆れ返ります。

痛みが愛情を増すって、本当に何度論理的に考えても意味がわかりません。本当に本当にわからないんです。

十分な考察がないと議論の飛躍っぽくもありますが、無痛分娩反対派は体罰容認派とつながっているのではないかとすら思えます。無痛分娩反対派を見つけたらその人ぶん殴った上で「痛かったでしょう。これが僕の愛情です」って言って許されるんでしょうか。痛みと愛情をつなげるところは、体罰容認派の危険思想そのものだとすら感じて背筋が凍ります。幼児虐待にだけはつながらないことを祈るばかりです。

前述のブログ記事にも書きましたが、反対賛成は別として選択肢の一つとして無痛分娩が存在していてもなんら問題は無いでしょう。現代の麻酔技術に対する信頼が持てなくて母体を保護したいといった意見ならいいのですが、そういう意見を聞いたことがありません。

痛みが愛情を増す理論、体罰容認派や幼児虐待と密接に絡んだ危険思想だと感じてならないのですが、この視点から考察している論説を見たことがないので、あまり一般的ではないのかもしれません。

男が出産の痛みを味わったら…といった武勇伝はもうやめよう

痛みの感じ方というのは千差万別で、全然大丈夫だったという人もいればこの世の地獄だったという人もいます。

男も女も人間であって、未熟な人間が存在するゆえ、未熟な女性というのも悲しいかな存在します(私自身はフェミニストというわけでなく、男も女も生物的ないくつかの差異を除けば同じ人間であるという立場でしかありません)。そういう未熟な女性は、男女間の対立を煽ったり、高齢になったらそれこそ「女の敵は女」よろしく若年女性をいびりいじめるという立ち位置になりがちでなのではないでしょうか。

よくある「男が出産の痛みを味わったら…」という武勇伝が好きなのもこのタイプの女性(武勇伝好きが全員未熟な女性であるとは言えませんが、少なくないケースがそうだと思います)。女尊男卑の時代を免罪符に(女性という立場を借りた)自分が気持よくなりたいだけでは?としか思えないのですが、結局のところそういう武勇伝は男女間の相互理解を促進するどころか、単に男女間の対立を煽っているだけに過ぎません。検証不可能な仮説は非科学的であるばかりか、都合の良い言論誘導になりがちです。

色々考えて、これと同じ気持ちの悪さを感じるのが老人男性の戦争体験自慢。特に私が子供の頃は戦後50年と言われていて、ちょうど還暦前後の社会的に重要かつ闊達な世代がこの戦後50年祭りに乗じて、こぞって戦争体験自慢をしたものです。語り部としての戦争体験者は貴重であるとは思うものの、語り部というより戦争体験自慢の粋を出ない戦争体験者の談話は少なくありませんでした。「今の若者は戦争体験がないからなっとらん」などとどうしようもないことを言われて、「じゃぁ起こしちゃいますか、第三次世界大戦?」って何度言ったことか。戦争でしか成長できない人間って、ちょっと色々破綻していませんか?2015年は戦後70年の節目の年ではありますが、80歳前後の男性が相当減ったこともあり正しい方向の落ち着いた議論になっていることは、風化という危機を感じさせない皮肉とでもいいましょうか。

私の母方の祖父は、戦時中に満州に行き、その後シベリア送りになって壮絶な体験をしたと周囲の人から聞きましたが、祖父自身からそのことを聞くことはほぼありません。その理由を周囲の人にたずねると「本当に壮絶な思いをした人は、そのことを語りすらしたくなくなることがある」といわれ、妙に納得した記憶があります。使命感を持って後世に伝えようとする一部の人も、正しい使命感があれば世代間論争を巻き起こすような自慢はしないのです。祖父は今も存命の90代ですが、帰省したときに会いに行っても最近買ったデジカメの自慢しかしないので平和な時代になったものです。

私の母も、相当若いときに私を産んだ際に逆子だったことや、先天性の足の病気を抱えた私のために100km以上遠くの病院に頻繁に通ったことを滅多に語りません。逆に私のほうが色々語りすぎと思ってしまうこともありますが、その時は自慢にならないよう注意しなければと数々の経験から思わされます。

「戦争体験がないから今の若者はなっとらん」というのと「出産の痛みがわからないから男は無理解」というの、事実上検証不可能な仮説に乗じた自慢という意味において本当に類似性を感じます。彼らは第三次世界大戦、そして医学の進歩による男性の(または他の霊長類の動物を代理母とした)妊娠出産を望んでいるのでしょうか。

色々な思いはありますが、最も痛感することは、女の敵は女であり、人間の敵は人間なのだということです。

体験する意味のない過剰な痛みは害でしかない

女性にも痛みに強い人と弱い人がいて、例えば出産が全く平気である人とこの世の地獄という人に分かれるようです。痛みへの耐性以外にも身体の器官の作りの個体差による部分も大きいでしょう。そもそも他の動物に比べて人間の女性の出産が桁違いに大変になったことは、人間が直立歩行をし始めたことが大きな要因の一つであることは前述のブログ記事でも触れました。

病気でもない、予兆可能な良性の現象に対する通知という意味での痛みというものが人間にとって意味のあるものだとは到底思えません。陣痛は出産の合図として言葉を持たない動物には有益なシグナルだったのかもしれませんが、骨盤の形が直立歩行によって変わってしまった人間の女性に対する桁違いとなった苦痛に何の意味があるのでしょうか。むしろ陣痛は生まれてくる子供を締め付けることでもあって、子供側の負担やリスクも考える必要がありますが、そういう議論はなかなか聞くことがありません。痛みが好きとか痛みをありがたがる風潮があっても、それによる不随意運動が少しでもあれば、医療現場であったり生まれてくる子供ったり、痛みを覚える側以外にも困難を与えているのです。

男性も、痛みに弱い人もいれば、痛みに強い人がいます。得てして痛みに強い人の方が良いのではと思いがちですが、病気による痛みというシグナルも必要以上に我慢出来てしまうため、大病を見逃しがちになるというのは思わぬデメリットであるといえましょう。

痛みの感じ方が人によって違うということは、体罰が否定される最も有力な事実です。同じ体罰でも、人によっては全く効果が無く、別の人にとっては生きる気力も失うなんて、手法として危険極まりありません。

痛みに強いことが偉い・痛みを感じることが尊いといのは、子供の我慢比べ程度の発想でしかなく、痛みに強すぎることがもたらす様々な弊害も合わせて考える必要があります。

自分が受けた痛みや苦しみを続く世代に強制してはいけない

戦争体験の礼賛も、出産の痛みの礼賛も、自分が受けた苦痛を次の世代も味わえという不幸の連鎖のように聞こえます。私はこれに、いわゆる体育会系のシゴキ、それにイジメの連鎖といった既視感を強く感じます。これは世代間のイジメといってもいいのではないでしょうか

不幸はどこかで断ち切らなくてはなりません。年上から受けた仕打ちを自らが年長になったら年下にもやってやろう、発注元の理不尽な要求はそのまま下請けに流そう、客先で怒られたから営業の俺は内勤の開発者に怒りをぶつけよう…等々。こういう不幸の連鎖は枚挙にいとまがありません。私もこんな不幸の連鎖の底辺でずっと命を削ってきました。もうこんなことはまっぴら御免です。

真に平和で思いやりにあふれる世界では不幸の連鎖は発生しませんし、それをどこかで断ち切らなくては真に平和で思いやりにあふれる世界にはならないでしょう。

話のスケールが大きくなってしまいましたが、女性の痛みや苦しみをどうするかといった問題の根っこは、結局は世代であったり男女であったりといった、何らかの区分による人間同士の不幸の連鎖なのだと感じずにはおれません。

本質的な解決をするためには、人間同士がどう思いやりを持って平和に暮らしていけるのかといったことをもっと真剣に考えていく必要がありそうです。

 

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